くろくろ便り 天文館界隈をあるく1


天文館の碑


天文館とは、もとは1773(安永8)年、第8代薩摩藩主島津重豪(しまづ・しげひで)が暦をつくるために創設した天文観測所・明時館の別名です。
明治初期まで、日本では江戸・東京で作成した太陰暦(旧暦)が用いられていました。
しかしこれでは薩摩は、江戸とは日の長さも異なり、暦のもっとも大切な役割である農事で不便を強いられることになります。
今でも、テレビの生中継で、東京は真っ暗でも鹿児島はまだ空が明るいという様子を目にしたことがあるでしょう。
重豪は幕府に特別の許可をもらい、独自の薩摩暦を生み出させました。

繁華街としてのイメージは、西南戦争後に西本願寺鹿児島別院がいまの場所に建立されて以降、次第に定着していきました。
明治・大正初期の市街地図を眺めると、いまの天文館通りの場所には「中福良通り」の文字があります。
このような通り名の消長に注目してみるのも、街の変遷がわかります。
私たちが「天文館」とよぶ繁華街の名は、正式な町名ではなく、そのためはっきりとしたエリアが決まっていません。
天文館通りを中心としつつ、次第に拡大する商店街の範囲を、私たちは便宜上「天文館」と呼んでいます。
最近のある調査では、天文館地区の北境は朝日通りとするのが一般化してきました。
繁華街の分布とともに、天文館がさす街の範囲も次第に広がっていった結果といえるでしょう。


※著:深見聡(長崎大学県境科学部准教授)
※くろぶたねっと『鹿児島へいらっしゃ~い』第19回より抜粋


天文館通「天文館通」は鹿児島弁では「てんもんかんどおい」となる