くろくろ便り 両棒餅


両棒餅(じゃんぼもち)の由来


数ある鹿児島の伝統食の中でも、最難関の読み方をするものといえばこの両棒餅でしょう。
両=「りゃん」、棒=「ぼ」がなまって、「ぢゃんぼ」の呼び名が定着したと考えられています。
由来には諸説ありますが、代表的なものとして次の2つが知られています。

今をさかのぼること約670年、時代は鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による建武の新政も失敗し、日本中が北朝と南朝という2つの天皇家を擁立し武家の勢力争いが繰り広げられていました。
鹿児島では南朝の勢力を立て直すために、後醍醐天皇の子の懐良(かねなが)親王(1329?~1383)が鹿児島市南部の谷山の地に御所を構えます。
当時、親王は10歳前後ですから、親王を招いた豪族は何か好物はないかと工夫を重ねたといわれます。
そこで出されたものが、一口サイズの焼き餅に二本の棒をさしたものでした。
親王はたいそうこの味を気に入り、この品の名前は何かと尋ねられ、とっさに答えた名前が「両棒餅」でした。

江戸時代、武士たちが二本の刀を脇に携えている姿が原型となって、2本の棒をその脇差になぞらえた「両棒餅」が生まれました。

今となっては、いずれの説もどちらが正しいと断定することは難しいのですが、谷山が発祥とする書物が多く、(1)の逸話も「両棒」の命名に何らか関係していたといえるでしょう。

※著:深見聡(長崎大学県境科学部准教授)
※くろぶたねっと『鹿児島へいらっしゃ~い』第36回より抜粋


仙厳園両棒餅屋仙厳園両棒餅屋

両棒餅みそ味としょうゆベース味の両棒餅