くろくろ便り いも焼酎の歴史


日本最古の「焼酎」の記述は鹿児島にあり


「焼酎」の記述がある日本最古の文字は、実は鹿児島県伊佐市にある郡山八幡神社から発見されています。
おもしろいのは、それがきちんとした巻物など公文書ではなく、大工さんの落書きであることです。
1954(昭和29)年、郡山八幡の解体修理中に見つかったもので、1559(永禄2)年に書かれたもの。
「作次郎 鶴田助太郎 其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎を不被下候、何共めいわくな事哉」
(社殿修理のとき、座主がけちで一度も焼酎をふるまってくれない。何とも迷惑なことだ。)
の記述は、室町時代後期には、すでに庶民の間で焼酎が飲まれていたことを表しています。
さつま芋は、18世紀初めに琉球から薩摩に伝来していつので、長い間、鹿児島で飲まれていたのは米焼酎だったのです。

幕末の名君・島津斉彬の思い

1851(嘉永4年)、11代薩摩藩主の座についた島津斉彬は、1858(安政5)年に急逝するまで、軍事をはじめ薩摩切子・白薩摩焼からパンや洋酒といった食料品にいたるまで幅広い近代化の事業実用化をすすめました。
鹿児島市吉野町磯地区に工場群を築き、これを集成館と名付けています。当時、薩摩藩はいち早く西欧列強のアジア進出に危機感を覚え、軍備の近代化を急ピッチで進めていました。製鉄や造船をはじめ、機械工業の操業にこぎつけます。
工業用アルコールの原料に米焼酎を使っていましたが、米は高価であり庶民の生活に与える影響も大きいと考え、原料の安い芋焼酎への転換を図り、大量生産への道を開きました。これが「薩摩焼酎」=芋焼酎というイメージが定着する緒を開いたといえます。

焼酎を味わう

ソムリエの田崎真也氏は、著書『本格焼酎を愉しむ』(2001年、光文社新書)のなかで、「芋焼酎の独特の香りは、豚肉や鶏肉の香りを引き立てる効果がある」と、肉そのものの味わいを活かした料理には、芋焼酎による香りが合うと述べています。
鹿児島の肉食文化は、江戸時代も途絶えることがなかったために、代表的な郷土料理の素材のうちでも長い伝統があるといえます。
鹿児島弁で「だれやめ」といえば、「だれ」=「止め」るの意味で、晩酌をのみ疲れを癒すことをさします。
県内各地に受け継がれたり新たに登場したりしてできた銘柄の数々は、鹿児島に焼酎文化が広く根づいていることの証といえるでしょう。

※ 著:深見聡(長崎大学環境科学部准教授)
※くろぶたねっと『鹿児島へいらっしゃ~い』第26回より抜粋